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第10回

「450年」

5月26日の復興記念日に話したことを記します。

昭和23年5月26日午前6時半頃、工場より出火して全焼しました。
21年6月8日に当社は創立しましたので僅か2年足らずのことでした。
その後、毎年、私達はこの大変な出来事を戒めとして忘れないように式を行っています。昭和23年は1948年で今年は2008年ですから丁度60年経っています。

実は私の先祖がこの五明に地に住み着いたと見られるのは、450年前の1558年です。五明の西南2km位に浮野という所があります。
浮野の戦いとして歴史に残っていますが、7月12日に大合戦が行われ本家筋で一番大きかった岩倉織田家が清洲織田家・犬山織田家の連合軍に大敗し2000余人の軍のうち900余人が戦死します。そして、これがもとで岩倉織田家は滅亡します。

この時岩倉織田家の家老であった福田大膳正は深手を負って五明の西にたどり着き村人に助けられましたが、岩倉からかけつけた妻子の介抱にもかかわらず、その夜に息を引き取ったようです。帰る場を失くした家人は、その後五明の西わきに住んだと思われます。大膳という地名が残っていたこと、福田姓が約30軒あるからです。どんな暮らしで過ごしたか判りませんが、450年間生活してきたものと想像されます。

父、福田清は明治41年即ち1908年生まれですから本年は生誕100年と言うことになります。20年前に他界した父から次のことなどを聞かされていました。分家してから7代目であったこと、祖父源左エ門は字を読めなかったが威厳があり、仏を信じ瀬部の平田氏と篭を編みながら2回四国を遍路し、裏の東光寺と三ツ渕の正眼寺に箱庭のような八十八ケ寺を築いたこと、豆腐が好物で私の祖母「はま」がいつも用意していたことなどです。

祖父源十郎は16歳の頃家督を引き継ぎ、10人近くの兄弟姉妹の結婚、10人近くの自分の子供の結婚費用を働いて作ったようです。
私と弟達は祖母「はま」に従って毎晩仏壇の前でお経を読みましたが、祖父は一度も仏壇の前に座りませんでした。その代わり毎朝お日様に向かって拍手を打って拝んでいました。今で言う太陽信仰だったと思われます。それから誰が作ったか判りませんが、母屋の裏にお不動様の石組みが残っておりました。そう言えば弟達が祖父に連れられて前渡のお不動さんへ行ったと聞いたことがありますから、お不動様もちょっと信仰していたのかも知れません。

曾祖父、清蔵は岐阜加納の武家から養子に来たものと聞かされました。この人がお城北では一番大きかった農鍛冶をやったのでしょうか。西の畑・現在私の家が建っている処からは金くずの錆びたものが時々出て来ていました。味岡と甚目寺に取次所があったと聞いたように思います。

現代は書いたもので伝えられる時代ですから、昔のように口語りで親や祖父母から聞き伝えということが減ってゆくか、又は全く無くなると思われます。私の聞いていたことを少しでも残しておくのも務めかと思いました。

(2008/06/09)