第66回
母にみる親のこころ
二宮尊徳翁の歌に「父母(ちちはは)もその父母も我身(わがみ)なり、我を愛せよ我を敬(けい)せよ」とあります。父は29年前1988年に他界しましたが、母は3月1日に103歳まで2週間を 残して永眠いたしました。 妻と娘達には世話を掛けましたが、幸せな生涯だったと思います。
101歳の誕生日の前日に親しい知人の施設に入れていただき、その後 毎月訪問していましたが、私自身 昨年の11月21日病院へ家族が集められるような状態になってしまいました 。その後 代わりに長女が通ってくれていました。いつも母は「私とかわってやりたい」と言っていたそうです。
24歳で妻と結婚するまでは、母の庇護のもとに暮らしていたことになります。戦争中、父は飛行機整備兵として徴兵され兵庫、立川に勤務しており、最後は母と私が名古屋 に残り過ごしていました。毎夜、空襲をうけ歩道に掘られた防空壕へ2人でとびこんでいました。疎開用にリヤカーを貸すという仕事を母はして居りました、私も夕方リヤカーを倉庫に しまう手伝いをして居りました。戦争末期で全く食糧不足なのに、どこかで水飴を手に入れ 私に与えてくれ ました。小学校1年生の時 図画の時間に描いた手旗の水兵さんの絵がひどく弱々しく下手で、帰ってから母にもう一度裏に描きなさいと言われ別人のような良い絵が出来上がりました。その絵は後までも残してあり、自信の大切さを教えられました。戦時中なのに習字の先生をさがし習わせなどしてくれました。
終戦直前に名古屋から祖父母の住む江南に移り、慣れない農業をやりましたが、厳しい躾けと優しい扱いを母は してくれました。中高と私立学校へ行き大学受験の勉強をしました。何10年も前にも拘わらず、今でいう塾や家庭教師にお金の乏しい中 習わせてくれました。現在、子供が孫に一生懸命にやっているのを見るにつけ、母親のひたむきさを感じます。思い返してみますれば、妻が4人の子供にしてきた事も全く同じだったと言えます、 私が家計に入れる多くはない収入で、その時々に出来る精一杯のことをして呉れたと思います。改めて女性の沁の強さを感じます。
2017.5.29