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第18回

「無記と変革」

無記にはお釈迦様が質問に答えなかったということと、善でも悪でもないという意味があります。
後者については清水寺の森 清範貫主が次のように述べておられます、「仏教の考え方では、人間の心から、善や悪の思いが言動となって現れるとしています。
しかし、これは現れて終わりではありません。
さらにこの言動はもう一度心へ記憶されていくのです。善いことも悪いことも・・・。
すると、人の心の中には善も悪もたまっていくわけですね。
しかし、心は善をいくらためこんでも善には染まりません。
逆に悪いことをしても、悪に染まらないのです。つまり心自体は、善悪に染まらない「無記(むき)」であるということです。白無垢なのですね。
仮に悪行により心が染まれば、その人がいくら善行をしても善心にはなりません。染まらないからこそ、やり直しがきくのです。
反対に、いくら善行をしていても、悪行をすれば一瞬にして悪人になるのです。
ですから、心というのは中立的な存在なのですね。」
経営も心とよく似ています。いくら経営的に良いことを繰り返し積み重ねても、それで良いことにはなりません。
いつも良いことを目指して、し続けねば経営はうまくゆきません。
まずい手が多くて経営体の内容が悪くなっていても、消滅してさえいなければ、良い方策がとられれば、良い方向へ進み始めます。
ただ経営の場合は必ずしも良いこと悪いことが明確に事前にわかっていないのです。さらに昨日まで良かったことが、悪いことに変わってしまうことすらあるのです。
整理、整頓、清掃、清潔、躾のように良いこととして変わらないこともありますが、常に変化させねばならぬことが多くあります。新しく変えてやることが、うまくゆくとは限りません。うまくゆかなければ引っ込めればよいのです。
成功の反対語は失敗ではなく、何もやらないことだ、と云われますがその通りです。
永く続いているものは、なにも変わらないのではなく常に変革が続けられているものと考えられます。