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第53回

「第66回復興記念祭」

楠美さんが卒業されたので、1948年の今日(5月26日)、この時刻(午前6時30分)を体験したのは私しか会社に残っていません、語り部としてお話したいと思います。その時、私は小学校の5年生でした。出火の鐘を聞いたのは、朝食をとっている時でした。初代社長である父がメガネの奥で涙を流していたのが眼に焼きついております。その頃、布袋町には自治体による常設消防署はなく、民間有志の消防団に頼っていました。五明にも第8分団がありました。消火後も再出火に備えて、しばらく地元の消防団が警戒に当たっていました。

私は1959年に入社しましたが、その年に11回目の復興記念祭が行われました。30年史にも記録されていますように、火災は地元に大変な迷惑を掛けることでありました。当時は防火知識が乏しく電気設備等も今ほど完全ではなく、よく火災がありました。
しかし、注意力で火災を発生させないよう、毎年気を引き締めてきました。企業には火災の他、労災事故、交通事故、製品事故等いろいろな心配がありますので、併せてこれらの事に対する注意も喚起して参りました。今年も是非、頭を働かせて防衛に努めて下さい。

1946年に布袋食糧加工株式会社として米麦の加工を目的に発足しました。1945年の敗戦前後は全てのものが殆んど無く、特に米麦は統制されており配給物資でした。農家と云えども米の供出を義務付けられており、自家用に少し使えるだけでした。小麦はパンや粉、麺にしなければ食べられません、当社はその委託加工を引き受けることで始まりましたが、パンの交換率が良いと評判になり、徹夜でパンを焼いていた工場が夜明けのちょっとした油断から全焼してしまったのでした。
現在の本社の西側の道をはさんだ西側の80坪の借工場でしたが、もうそこへは再建させて貰えませんでした。万葉庵のあたりは田圃でしたが、全従業員が協力して、それを埋め立てパン工場を40日位で作り上げたのです。パンの需要が多かったので名古屋へ新工場をと考えていたのでしたが、名古屋進出はこの火災で断念されたと思われます。

この頃、沢山生まれた製粉業はロール機、篩機それぞれ1台の循環式によるものでした。発足間もない当社でしたが、本社の西側あたりに多段式のロール製粉工場を建設中でした。多分この火災によって軸足が製粉に移っていったと考えられます。今迄、復興記念日をこんな風に思ったことはありませんでしたが、本社敷地のいろいろな建物が整理されるのを見てこんな感慨を持ちましたのでお話し致しました。